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九谷焼の歴史

九谷焼のふるさと

雪深い山あいの里、雪に閉ざされ、交通も途絶える奥深い村。
九谷焼発祥の地、加賀国江沼郡九谷村
(現在の加賀市山中温泉九谷町)がそこにあります。
地名・九谷をとって江戸末期頃より九谷焼と呼ばれるようになりました。
創始期の頃を古九谷と言い、それ以後を再興九谷として区別しています。

時の流れにつれて窯場もまた場所を移し、多くの有名な窯が出現しています。
それぞれの指導者・時代背景・人々の生活の影響を受け、素晴らしい
特有の作風を編み出し、その時代の画風がすべて長い時間を経て
現代にまで受け継がれています。

どの手法にも共通することは、雪に閉ざされた長い時を丹誠込め、
忍ぶがごとく書き込んでいく細密画などの絵付けに見られます。
また、古九谷に見る骨描きの線の鋭さは、まさに日本海の荒波に挑む力強さです。
北陸の人々の心情や、生活を写しているかのごとく、九谷の持つ力強い重厚な深い味わいや色彩が生まれ 、観る人の心に訴えるものがあります。その心情が今もなお息づいています。

ロクロ師雪の重みに耐え忍ぶがごとく、黙々とロクロを廻し続ける老ロクロ師がいます。
淡々と語る横顔に深く刻まれたしわに、
長いロクロ生活により培われた技術の域を超えた自信が見えます。
大きな手が土を愛でるように自由に扱う、土がだんだん息づいてくる。
そのしなやかな手さばき、生き物のように次々と作品が生まれ、
鋭い目の中にえもいえぬ優しさがのぞきます。

炎との戦い

炎との戦い炎により魂を入れるがごとく、窯の作業は重要です。 現在の九谷焼は工業化され、以前のような登窯はあまり見かけられませんが、土から練り上げ、ロクロで生まれたものが初めて陶磁器となる、この魂を入れる作業の厳しさは現在も変わりません。 時には、そり、ゆがみなどが生じ、今までの苦労が全部実るわけではありません。たゆまぬ労働にささえられ、完成した完全なものだけに絵付がほどこされるのです。

五彩(緑・黄・赤・紫・紺青)が織りなす幽玄の世界

古九谷・吉田屋・赤絵等、幅広い描法の数々をすべて取得した、細かい絵を丹念に精魂込めて書き、描く、職人たちのこころが伝わってきます。綿密でそれでいて流れるような力強い骨描きが白地の陶磁器に描き込まれていく、白と黒の水墨画のような絵に、まだ未発色のドボドボした色絵具をそっとのせるように置いていく、この絵具が炎により美しく発色し、五彩のガラス質に変貌する、白磁の陶磁器が生まれ変わる様に目を驚かせます。

このようにして骨描きの筆使いの鋭さと上絵具の重厚な濃さとにより、九谷焼となるのです。

五彩が語る350年の浪漫の世界

九谷庄三-色絵花鳥図大平鉢創始期の「古九谷」は明暦(1655年)頃に大聖寺藩により推進されました。
九谷の鉱山から陶石の発見により加賀藩の後藤才次郎が指導者として、肥前有田に赴き陶技の取得をし、九谷の地で窯を築いたのが古九谷開窯とされています。

このように古九谷は加賀百万石文化の豪放華麗な美意識に強く影響され、独特な力強い様式美を築きました。この華やかな古九谷も元禄(1700年)頃に突如廃窯という道をたどりました。指導者の後藤才次郎が没した為か、現在でも原因は定かではありません。
古九谷が廃窯してから約80年後、文化(1806年)頃に加賀藩営で金沢に春日山窯が開窯されました。

これにより再興九谷の時代に入り、春日山窯の木米風、大聖寺藩により九谷古窯の地で古九谷再興を目指した吉田屋窯、赤絵細描画の宮本窯、金襴手の永楽窯等数多くの窯が出現し、それぞれ特有の素晴らしい画風を作り出してきました。明治には、洋絵具による細密描法の彩色金襴手の庄三風が有名となり、輸出もされ、産業九谷としての地位を築きました。

代表画風に見る歴史の推移

古九谷 明暦年間(約350年前) 古九谷

明暦年間(約350年前)

日本画狩野派の名匠(久隅守景)の指導によったといわれるもので、青(緑)・黄・赤・紫・紺青の五彩を用い、絵画的に完成された表現力で大胆な構図、のびのびとした自由な線書き、力強い豪快な深い味わいが魅力です。


木米 文化年間(200年前) 木米

文化年間(200年前)

古九谷が廃窯され、約80年後、加賀藩営で金沢に春日山窯が開窯され、京都の文人画家(青木木米)の指導により全面に赤をほどこし、人物を主に五彩を用いて描き込んである。中国風のものである。


吉田屋 文政年間(約185年前) 吉田屋

文政年間(約185年前)

青手古九谷の塗埋様式を再興したもので、赤を使わず、青(緑)・黄・紫・紺青の4彩を用い、模様の他に小紋を地紋様風にして、器物全面を絵具で塗り埋めた重厚さのある作風で独特の雰囲気をかもし出しています。


飯田屋(赤絵) 天保年間(約170年前) 飯田屋(赤絵)

天保年間(約170年前)

赤により綿密に人物を描き、その周りを小紋等で全体を埋めつくし、所々に金彩を加えてあります。一見して筆舌に尽くしがたいほどの赤絵細密描画です。


庄三 天保→明治(約155年前) 庄三

天保→明治(約155年前)

古九谷・吉田屋・赤絵・金襴手のすべての手法を間取り方式で取り入れ、これらを幕末から明治初期にかけて輸入された洋絵具を用いて、細密に描き込んだ「彩色金襴手」という技法を確立しました。こうした精密な九谷上絵の傾向が明治初期の外国貿易品としての好みに適し、工房で生産された作品が大量に輸出され、また国内に販路を拡げ「庄三風」として九谷焼作風の大きな比重をしめ、今日の産業九谷の主流となるに至りました。
庄三は寺井村(現在の能美市寺井町)の農家に生まれ、11歳で美川町の古酒屋孫次に陶画を習い、天保3年には小野窯で陶画工として活躍、同10年には五国寺の松谷に陶土を発見し、同12年以降は寺井に居住し現在の寺井九谷の基を築きました。


永楽(金襴手) 慶応年間(約140年前) 永楽(金襴手)

慶応年間(約140年前)

永楽和全による京焼金襴手手法で全面を赤で下塗りし、その上に金のみで彩色した豪華絢爛な作風とともに、京焼風な洗練された美しさを魅せています。