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義経伝説 能美市を行く

義経をとりまく歴史

時は下って12世紀。京の都では貴族が優雅な生活を送り、武士はそれに侍う者として格が低くみられていた。それに取り入ったのが50代桓武平氏の流れをくむ地方武士団の棟領平清盛である。この頃平氏も源氏も武家として貴族の下に甘んじていたのだが、1159年平治の乱で源義朝がクーデターを起こした為、勢力争いに運良く勝利した平清盛は、次々と出世し栄華をその手に掴みこの世の春を謳歌するうちに、武士の本文を軽んじてしまった。それが以仁王(もちひとおう)をようした源頼政の挙兵を起こさせた。その鎮圧に成功した清盛は追い打ちをかけるように全国の源氏追討令を出す。

ここからが義経の登場である。

義経の一生は短く、治承四(1180)年に黄瀬川で頼朝と対面して以来、文治五(1189)年、奥州にて三一歳で自害するまでわずか九年半。そのあいだに木曽義仲を破り、一の谷の戦い(鵯越の坂落し)、屋島の戦い(那須与一の“扇の的”)、壇ノ浦の戦い(義経の八艘飛び)で平家を滅ぼす。最後の二年間は奥州に隠れた失意の日々であり、奥州に至るまでのあいだにもまた空白の二年間がある。
その空白の二年間が義経伝説の舞台である。          

岩根宮:義経通夜祈念碑室町時代に書かれた「義経記」(ぎけいき)では義経一行の落ちのびる様子が詳細に記されている。
越前(福井県)平泉寺(へいせんじ)を出た一行は加賀市・菅生石部(すごういそべ)神社を拝み、篠原(加賀市)に泊り、斎藤実盛を偲んでいる。安宅の渡し(小松市)から根上の松(能美市)、岩本(能美市)の十一面観音に籠り(岩根宮)、白山権現に参拝、加賀国富樫(野々市町)を過ぎ、かつて木曽義仲が平家を破った倶利伽羅峠では平家の霊を慰める経を読んでいる。この道はかつての古代官道(木曽街道)とほぼ重なり、加賀市片野海岸から黒崎、加佐の岬に至る遊歩道と一部平行するように、木曽街道の面影が残っています。


義経一行、能美市横断

能美市内での伝説等から考えると、義経一行は現在の能美市を東西に横断していったと思われます。
弁慶の機転で、無事安宅の関をぬけることができた義経一行は、安宅の渡しを渡り道林町で弁慶が義経に対し関所の一件を泣きながら謝罪し(弁慶謝罪の地)、源平盛衰記に「寿永2年(1183)、加賀国住人井家二郎範方17騎の勢にて、根上の松のほどまでに返し合わせ合わせ11度まで散々に戦いけるが・・・範方ついに討たれりけり。根上の松というところは、東は沼、西は海、・・・」とあって、少数とは言え、激しい戦いのあった場所でもある根上の松を通り、蛭川町(小松市)を抜け八丁川沿いに白山権現を目指し小長野町牛島町を通り佐野町の狭野(さの)神社にて鉄扇を奉納し(言い伝えが残っている)山づたいに徳山町を経て和気町金剛寺町を過ぎ大口町から奥谷へ出て岩根宮で義経一行は通夜し、翌朝2月11日和佐谷の渡しで手取川を渡り白山権現(白山市)に参拝したと伝えられています。日本三名山のひとつ白山は信仰の山でもあり、平安末期加賀では白山本宮は叡山延暦寺の末社であり、勢力もあり義経一行を奥州へ逃すため、彼らしか知らない人里離れた険しい山づたいの道を案内したとも言われています。

諸説はありますが、皆様も義経一行になったつもりで能美市内にある伝説地跡を辿ってみてはいかがでしょうか。

義経一行の軌跡